
「将来を悲観して殺そうと思った。」
群馬県で起きた、高齢の母親を介護施設から連れ出し、長女が殺害しようとしたとされる事件。報道によれば、「母親の将来を悲観して殺そうと思った」と供述しているといいます。
もちろん、現時点では事件の全容は分かりません。家族がどのような状況にあり、どのような支援を受けていたのかも明らかではありません。だから、「介護施設が防げたはずだ」と断定することはできません。
それでも、この事件を介護職として他人事にはできないと思いました。
介護の現場では、「利用者をどう支えるか」が語られることは多くあります。しかし、本当に追い詰められているのは、その利用者を支え続けている家族なのかもしれません。
私は以前、ショートステイの現場で「大変な利用者はあまり入れないでほしい」という声を聞いたことがあります。
その気持ちは分かります。現場は人手不足で、認知症への対応や夜間の介助など、職員が疲弊しているのは紛れもない事実です。その苦しさを否定するつもりはありません。
しかし、一方で立ち止まって考えたいことがあります。
ショートステイは、利用者を預かるサービスであると同時に、在宅介護において家族を支えるサービス(レスパイト)でもあります。
本当に介護で追い詰められている家族ほど、「大変な人」と言われてしまう利用者を支えています。
もし「大変な人だから受け入れない」という発想が広がれば、その家族はどこで休めばいいのでしょうか。
誰に「もう限界です」と言えばいいのでしょうか。
介護職は利用者だけを支える仕事ではありません。
家族は疲弊していないか。
「大丈夫です」と言いながら、本当は限界ではないか。
将来に絶望し、「もう生きていけない」と思い詰めてはいないか。
そうした小さなSOSに気づこうとする姿勢も、私たちの大切な役割ではないでしょうか。
私は、「ケアする人をケアする」という言葉を、安易なスローガンとして使いたくない者です。
それは「介護職を大切にしよう」という話でも、「感謝されよう」という話でもありません。
介護を担う家族も、専門職も、人間らしい生活を送り、休み、弱音を吐き、「助けて」と言える社会をつくること。
そのことを本気で考えるという意味だと思っています。
もちろん、介護職だけで今回のような事件を防げるわけではありません。制度にも限界があります。私たちにも限界があります。
それでも、「家族も支援の対象である」という視点を持ち続けることには意味があるはずです。
この事件は、「なぜ家族がここまで追い詰められたのか」という問いであると同時に、「介護サービスは家族の絶望に気づける存在であり続けられるのか」という問いでもあるのだと思います。
そして、私はこの一文を自分自身にも問い続けたい。
「『大変な人は受け入れない』という言葉の先に、誰にも助けを求められなくなった家族がいるかもしれない。その想像力を、介護の現場から失ってはいけない。」
この事件を、遠い場所で起きた悲しいニュースとして消費するのではなく、介護に関わる者として、自分自身の仕事の問題として考え続けたいと思います。



厚労省が改めて「国家資格」と宣言した介護支援専門員(ケアマネジャー)。いよいよ願書受付が始まりました。



