よるのひるねのブログ

介護福祉士のよるのひるねです。2025年に介護支援専門員の資格をとり、施設ケアマネをやっています。X(旧Twitter)やってます。

家族の絶望に、私たちは気づけただろうか

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「将来を悲観して殺そうと思った。」

群馬県で起きた、高齢の母親を介護施設から連れ出し、長女が殺害しようとしたとされる事件。報道によれば、「母親の将来を悲観して殺そうと思った」と供述しているといいます。

もちろん、現時点では事件の全容は分かりません。家族がどのような状況にあり、どのような支援を受けていたのかも明らかではありません。だから、「介護施設が防げたはずだ」と断定することはできません。

それでも、この事件を介護職として他人事にはできないと思いました。

介護の現場では、「利用者をどう支えるか」が語られることは多くあります。しかし、本当に追い詰められているのは、その利用者を支え続けている家族なのかもしれません。

私は以前、ショートステイの現場で「大変な利用者はあまり入れないでほしい」という声を聞いたことがあります。

その気持ちは分かります。現場は人手不足で、認知症への対応や夜間の介助など、職員が疲弊しているのは紛れもない事実です。その苦しさを否定するつもりはありません。

しかし、一方で立ち止まって考えたいことがあります。

ショートステイは、利用者を預かるサービスであると同時に、在宅介護において家族を支えるサービス(レスパイト)でもあります。

本当に介護で追い詰められている家族ほど、「大変な人」と言われてしまう利用者を支えています。

もし「大変な人だから受け入れない」という発想が広がれば、その家族はどこで休めばいいのでしょうか。

誰に「もう限界です」と言えばいいのでしょうか。

介護職は利用者だけを支える仕事ではありません。

家族は疲弊していないか。

「大丈夫です」と言いながら、本当は限界ではないか。

将来に絶望し、「もう生きていけない」と思い詰めてはいないか。

そうした小さなSOSに気づこうとする姿勢も、私たちの大切な役割ではないでしょうか。

私は、「ケアする人をケアする」という言葉を、安易なスローガンとして使いたくない者です。

それは「介護職を大切にしよう」という話でも、「感謝されよう」という話でもありません。

介護を担う家族も、専門職も、人間らしい生活を送り、休み、弱音を吐き、「助けて」と言える社会をつくること。

そのことを本気で考えるという意味だと思っています。

 

もちろん、介護職だけで今回のような事件を防げるわけではありません。制度にも限界があります。私たちにも限界があります。

それでも、「家族も支援の対象である」という視点を持ち続けることには意味があるはずです。

この事件は、「なぜ家族がここまで追い詰められたのか」という問いであると同時に、「介護サービスは家族の絶望に気づける存在であり続けられるのか」という問いでもあるのだと思います。

そして、私はこの一文を自分自身にも問い続けたい。

「『大変な人は受け入れない』という言葉の先に、誰にも助けを求められなくなった家族がいるかもしれない。その想像力を、介護の現場から失ってはいけない。」

この事件を、遠い場所で起きた悲しいニュースとして消費するのではなく、介護に関わる者として、自分自身の仕事の問題として考え続けたいと思います。

日記

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20260609
休み。午前中と午後にジム。計5km走った。
今日から『ケアを学ぶ人のために』を読み始めている。
今週中には読み終わりたい。

20260612
明日は社会福祉士のスクーリング。どんな出会いがあるか楽しみだ。

20260613
本日は社会福祉士のスクーリング。社会福祉士の倫理綱領について集中的に学んだ。町田の訪問看護(でも社長は理学療法士)の不適切な動画についてやはり確信が持てた内容だった。町田村の村長とやらは、自分たちの行動規範であるはずの理学療法士の倫理綱領を無視した行動をしている時点で、もはや専門職ではないということ。これだけは断言できる。
一緒に学んだ人たちにいろいろな経歴・職種がいて刺激をもらえた。孤独な施設ケアマネだけれど、一緒に学ぶということを実践できることは素直に嬉しい。

20260617
村田沙耶香『コンビニ人間』を久しぶりに再読。

20260618
お休み。茶話本舗の藤田英明氏のXにおいて、私からしたらソーシャルワークを侮蔑しているかのように読み取れるつぶやきにいらだった。とりあえず反論のようなものを出した。X上で彼のつぶやきをリプライとか賞賛している様子をみると、彼の過去にやったことを知らない輩が増えたと感じる。歴史を学ばないとまた同じ過ちを繰り返すと思う。福祉のフランチャイズビジネス(公金チューチュー)という業態はリスクしかないということになぜ気づかないのだろう。

20260619
今日もお休み。Xは課金をしたので、毎日140字以上の文章を上げるようにしている。自分の考えを文章化させることで頭のモヤモヤそのものの正体が具体的にわかるような気がしてきている。
昨日今日と一度も堀切菖蒲園から出ず、午前と午後にジムで汗を流すことと、料理のための買い出ししかしていない。スマホはtiktokの閲覧に薬物依存のように時間をとられていたのでアプリそのものを削除。そのためジムでの動画を見るくらいになってしまった。あとは読書に当てている。
Xでは藤田英明氏がAiを使って私への回答なのか無害な文章を垂れ流していた。
なんか単発アプリについて書いたものがすげー読まれている。それだけ単発アプリを使用している方々はモヤモヤしているのかもしれない。

20260621
休み。GRが帰ってきたので嬉しい。今日は渋谷周辺の散歩をした。GR space tokyoに来訪してGRのケースを購入。あとはストラップが欲しいな。こちらはAmazonにて購入予定。
Xでいいねが2000以上付いた。なんか自分の文章じゃないみたいな感じ。

20260623
オープニング時にいた同僚が事故で退職していたのだが、今年の4月から同法人の他施設で生活相談員として就業していることを知った。すぐメールを送って、30分以上話をして近況報告とかこれからのこととか話した。
当時、退職した理由が介護業務に就くことができないような悲惨な事故だった。それで生活相談員としてまた一緒に(法人の仲間という意味)働けるのは素直に嬉しい。
僕は今の施設では同期がもう3人しかいない。それが悲しい状況だったので。

20260626
今日から4連休。カメラ遊び楽しい。

20260628
ジムで6km。隅田川テラスで4km。走るのは楽しい。

20260629
連休最終日。走りまくったお休みだった。
後藤輝樹が亡くなった。エンタメの政治家ではなく、政治のエンタメ化を目指したひとりだと思っている。
我が葛飾区でも選挙に何度も出られていた。ゴミ拾いなどの草の根運動をマジメにしていた人という印象。私よりも若い。そんな方が自殺か(Xみましたがそういう文脈でしか読めない)。悲しい。
毎日最低3km歩く(走る)。腹筋50回。あと腕を鍛えるやつ20回。今月は体重2kg減った。

日記

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20260527
虐待委員会で自分たちのやっているケアに対して、一度「不適切なケア」か「適切なケア」かを考えて欲しいと伝えると逆ギレ。
私たちは少ない人数で回しているんだとか、時間のかかる介護はできないだと。
全部自己都合じゃないか。それも介護福祉士持ちのユニットリーダーの発言。悲しくなる。
そこに気づかないなら退職してもらっても良いと施設長は述べている。
ちなみに不適切な介護かもしれないと認定したのは、立位不可能な利用者の入浴。立位が不可能なため、車椅子に移乗する際にオムツを仮止め。ズボンは太ももまで。そのままタオルをかけて居室へ移動。そして居室ベッドでオムツを改めて装着、ズボンをはかせる。二人でやって利用者の尊厳を損なわない介助ができるなら大いに結構。でも下衣をしっかり履かせずタオルを巻いだけの移動は心理的虐待以外の何物でもない。それをみた家族の気持ちを想像さえできない職員へなにを伝えれば良いのかわからない。
これをただ不適切な介護だから改めて考えて欲しいと伝えただけです。

 

20260528
Xのつぶやきがバズった。カンファレンスで利用者の介助が重くて大変だから食事を半量にして欲しいというユニットリーダーの発言に対して反論というかダメだといった内容のもの。医療的視点でも食事制限をする必要は一切なし。完全に介護を楽にするための意見。この感覚が言える人のそばではできれば一緒に働きたくない。
もう介護ではなく管理。
夕方、高齢者支援課へ自分のケアマネとしての対応が正しかったのかの確認。
ユニットへ「自分たちの介護そのものが適切か不適切かを確認してください」ではなく「不適切な介護そのものをしっかり指摘し改善させる」ほうが良かったのではないかと考えてしまったため。結果としてはユニット側はお門違いな文句を言いながらもケアの方法を変えたためセーフ。
そのままブログを書いた。明日アップできるかな。

 

20260529
私の文章がAiが作ったものかもというつぶやきにニンマリ。
Ai程度の文章力は
それだけしっかり整然とできているように思われたのかな。静かに淡々と書いているようにするのが今の私の目標。でも最低でも3回は読み返したり書き直したりしている。

 

20260530
明日からジムに通う。ジムそのものは20年ぶりくらいか。どれくらい痩せるだろう。

 

20260601
昨日購入した「適切なケアマネジメント手法の生かし方」(中央法規)がとても勉強になる。電車で読み込んでいる。
シモーヌヴェイユの「工場日記」の感想をXで書いたけど、介護そのものをこなすだけの人たちは、思考するという場所からほど遠い。単発バイトのような利用者を尊厳を持った人々として接しなくても成立してしまうようなもの。それは自分が考える本来の介護、すなわち「利用者の日々の細やかな様子に機敏に気づき、その時々で最適解を考えながら行動する。極めて能動的で人間的な営み」とは全く違うものだ。
数人であったが反響もあって嬉しかった。福祉は考えることから離れていくのだろうか。
帰宅後。ジムにて3km走った。明日は休みだ。

 

20260602
ジムにて朝は5km。夜は3km。特養ケアマネということとケアマネ殺傷事件についてXで呟いたらたくさんのいいねがついた。なんかびっくりだ。

 

20260603
忙しかった。台風のせいで職員休み。そのためユニットヘルプやら。実調やら。そんでもってカンファレンス。そして夕方救急搬送があったため救急車に乗って病院へ向かった。
Xはコツコツいいねが押されてる。僕はどこへ向かっているのだろう。

 

20260606
Xでは連日長文の呟きを投稿するようにしている。ニュースのような思想のような、ブログよりは少し短いものを。
噛みつかれるのはかまわないけれど、文章が読めない人間への反応は文章をしっかり読んでくださいとしか返信できないよ。あとから変な言い訳とかしてくるけど、そもそも文章を読み解くことができない人の問題を私に押しつけてこないで欲しいかな。今後はかまわずブロックしようと考えている。

 

20260608
帰りがけに池袋ジュンク堂。特に目新しいものはなかった。それよりは昨日最終日だった日暮里HAGISOの「小さな声、小さな本展」で手に入れたZINEが面白い。「本を作ることについて話そう?」と「耕す日々、小さな種を埋めてみる」の2冊。会場には日記ものが多くあったが、まあ最近の流行の流れではあるがBGM感覚というのかな。気づきはあるけれど、乱読することは自分の中にはない。それだったら島田雅彦の「ミイラになるまで」でよいわ。帰宅後、ジム。今日から腹筋30回も追加することにした。

『「問題職員」が流転する社会――当事者なき再発防止の盲点』

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二〇二六年四月二十三日の夜、岐阜県神戸町の特別養護老人ホーム「ラック」で起きた高齢者への暴行事案は、現代の不祥事対応が抱えるある種の空虚さを、これ以上ないほど鮮明に浮き彫りにした。

施設側は事態を把握すると、当該職員を出勤停止処分とした。その後、職員は自主退職という形で現場を去り、行政は特別監査に入り、施設は新たな再発防止策を掲げた。一見すれば、迅速で隙のない対応である。

しかし、決定的な問いがここに残る。

最も変わり、最も教育され、最も内省しなければならないはずの「当事者」が消え去った後で、一体誰に向けて、何のための「再発防止」が行われるのだろうか。

二〇二四年度から介護事業所には虐待防止研修や虐待防止委員会の設置が義務付けられた。しかし、その対象はあくまで在籍する職員である。退職届が受理された瞬間、施設はその元職員を指導する権限も義務も失う。行政監査もまた施設の運営体制を是正するためのものであり、現場を去った個人の変化や成長を直接目的とするものではない。

もちろん、虐待は個人だけの問題ではない。人員不足、教育体制、組織文化、管理職のマネジメントなど、さまざまな構造的要因が絡み合って発生する。だからこそ施設の検証や改善は必要である。

しかし同時に、どれほど組織を分析しても、「暴力を選択した本人」の内面にまで到達することはできない。

認知症の入居者から手を噛まれ、頬を叩かれたその瞬間に、本人の中で何が起きていたのか。どのような怒りや疲弊、あるいは思考の歪みが暴力へとつながったのか。それを最も深く理解できる可能性を持つのは、当事者自身との対話である。

当事者がいない空間で、残された人々が「なぜ虐待が起きたのか」を議論し、「これからは見守りを強化しよう」と誓い合う。その取り組み自体を否定するつもりはない。しかしどこかに、拭いがたい違和感が残る。

本人不在のまま行われる原因分析は、どうしても推測の域を出ない。そして時として、「私たちはあの職員とは違う」という無意識の安心感や自己弁護を生み出してしまう危険もある。

当事者を組織から切り離すことは、組織を健全に見せるうえでは合理的である。しかし、それは必ずしも社会全体にとっての再発防止を意味しない。

ここにあるのは、深刻な「リスクの流出」である。深刻な人手不足にあえぐ介護業界において、現場を追われた職員が、過去を伏せたまま別の施設へと滑り込むことは決して難しくない。暴力を選んでしまう危うさや、歪んだ認知を抱えたままの個人が、明日にはまた別の場所で、何も知らない新たな高齢者の前に立っているかもしれないのだ。組織がトカゲの尻尾切りで平穏を取り戻した裏で、虐待の芽はただ別の土壌へと植え替えられたに過ぎない。

現在の制度は、施設を改善する仕組みとしては一定の合理性を持っている。しかし、過ちを犯した個人が何を学び、どう変わるのかという視点は驚くほど弱い。

本来であれば、虐待を起こした職員に対しても、再教育や振り返り、専門職としての再出発を支援する仕組みがあってよいはずだ。罰を与えることと、変化の機会を提供することは、本来両立し得る。

だが現実には、多くの場合、退職によって関係は断ち切られる。

その結果として残るのは、「施設としては必要な対応を行った」という記録と、「再発防止策を実施した」という報告書である。

それらが無意味だとは思わない。しかし、最も向き合うべき当事者がそこにいないという事実は消えない。

当事者なき再発防止。

それは私たちの社会が抱える奇妙な矛盾である。

帳簿の上の清算とともに当事者は去り、残された人々だけが反省会を続ける。その光景はどこか、犯人がいなくなった教室で「暴力はいけません」と復唱している姿にも似ている。

私たちは本当に再発防止をしているのか。それとも、問題を見えない場所へ移動させることで安心しているだけなのか。

この問いから目を背ける限り、「再発防止」という言葉は、いつまでも空虚なままであり続けるだろう。

 

参考

https://zenshinkai.or.jp/post-766/

絶対合格。介護支援専門員2026

f:id:yoruno_hirune:20260604201118j:image厚労省が改めて「国家資格」と宣言した介護支援専門員(ケアマネジャー)。いよいよ願書受付が始まりました。

決して簡単な試験ではありません。

まずは記念受験にしないためにも「絶対に受かる」と周囲に宣言して退路を断つことが本当に大切かと。

私の場合ですが、一発合格した際に意識したポイントをまとめます。

過去問5年分を徹底的に「反復」する知識を定着させるために、暗記するレベルでの反復は絶対に必要です。
スキマ時間を徹底活用する
私の場合は、通勤時間と夜勤帯のワンオペ・待機時間が主な勉強時間でした。

●教材はお金をかけすぎずミニマムに

購入したのは「過去問」「一問一答」「合格問題集」の

3冊のみ。あとは無料のYouTube動画をフル活用しました。

一問一答はお守りのように常に携帯してやり込みました。

まずは筆記試験を確実に突破しましょう。

なぜなら、本当に地獄を見る(大変な)のは、試験に合格した後に待っている「実務研修」だからです(私は仕事との両立で小さい胃潰瘍ができました)!

あそこで力尽きないためにも、筆記は効率よくサクッと合格を掴み取りにいきましょう。

今年受験される皆様、応援しています!

 

 

 

 

ケアはなぜときに憎まれるのか

川口市で起きたケアマネジャー刺殺事件の報に接したとき、胸を突いたのは行き場のない憤りとともに、ある種の「底知れなさ」だった。訪問先という密室で、利用者を支えるはずのケアマネジャーの首を切り、自らも命を絶った六十代の息子。

彼が死の間際に警察へ遺した「金をだましとられる」という言葉は、あまりにも一方的で、あまりにも強固な、他者への歪んだ認知を物語っている。


事件後、メディアや社会は一斉に「訪問介護の安全確保」や「防犯対策」を叫び始める。複数人での訪問、防犯ブザーの携帯、行政との連携。どれも実務的には必要なことなのだろう。

しかし、そうした「リスクマネジメント」の記号だけでこの惨劇を語り終えてしまうことには、割り切れない危うさを感じる。

なぜなら、その安易な安全論の網の目からは、彼らの部屋の窓に張られていたという「体調が悪いので静かにしてください」という張り紙(埼玉新聞の記事より)の、あの張り詰めた沈黙がこぼれ落ちてしまうからだ。

ここで問われるべきは、制度の不備というよりは、むしろ「ケアの現場における視線の非対称性」ではないか。
ケアマネジャーをはじめとする対人援助職は、常に利用者とその家族に「持続的な眼差し」を注ぐ。

彼らの生活の困窮を、身体の衰えを、そして関係性の軋みを、受動的に、しかし辛抱強く見つめ続ける。それがケアという実践の本質だ。

だが、その眼差しがどれほど誠実で、どれほど制度的に正当なものであったとしても、受け手側の認知が内側から崩壊しているとき、その眼差しは全く異なる恐怖の光として反射してしまう。
「金をだましとられる」という息子の妄想は、彼が世界をどう見ていたかを示している。彼にとって、誠実にサービスを調整しようとするケアマネジャーは、自分たちのなけなしの領域を侵食し、欺こうとする「敵」に他ならなかった。
こちらがどれほど「共存」を願って見つめても、相手の網膜には「搾取者」として映る。この、言葉も論理も通じない視線の断絶の前に、ケアの有する倫理は一瞬で無力化される。その理不尽さこそが、この事件の最も深い闇である。

そしてこの断絶の背景には、いわゆる「5080問題」が、このケースにおいては「6090問題」へとスライドし、さらに先鋭化した孤立の構造がある。
九十代の母親を、六十代の息子が介護する。この関係性は、外側から見れば「老老介護」の福祉的課題だが、その内実には、数十年にわたり堆積してきたであろう「親子」という名の密室の重圧がある。

 

かつて「5080」と呼ばれた引きこもりや生活困窮の当事者たちが、そのまま年齢を重ねたとき、彼らの世界は完全に目張りをされた空間になる。

近隣に向けられた「静かにしてください」という張り紙は、社会に対する SOS であると同時に、外部のあらゆる「音」や「気配」を拒絶する、精神的な防壁の宣言でもあったのだろう。
この密室の内部では、社会的な支援の手が伸びること自体が、静かな秩序を乱す脅威として知覚される。

息子にとって、老いた母親と二人だけの閉鎖空間は、社会から見捨てられた絶望の場所であると同時に、自分が支配し、守るべき唯一の聖域だったのかもしれない。

そこに介入してくるケアマネジャーという「外部の他者」は、彼の脆弱なプライドと、歪んだ依存関係を脅かす存在として映ったのではないかと私には思えてしまう。
私たちは、福祉の網の目を細かくすれば、あらゆる悲劇を「予防」できると信じたがる。

しかし、孤立が深まり、自己の殻の中に閉じこもった人間の内なる声を、外から正確に聞き取ることは極めて難しい。彼らは助けを求める「声」をあげる代わりに、他者を拒絶する「張り紙」を張り、あるいは内に秘めた被害妄想を刃に変えて突如として爆発させる。
この事件が私たちに突きつけるのは、単に「いかにして職員の身を守るか」という技術論ではない。それは、社会の死角で肥大化していく「届かない声」と「歪んだ視線」に、私たちはどう向き合えるのか、という他者理解の限界である。
ケアという実践が、相手との「受動的な共存」であるならば、その共存を根底から拒絶し、網膜の奥でこちらを敵と見なしている他者を、私たちはどのように見つめ続ければよかったのか。

川口の空の下、静まり返ったその家に向かって歩いていたケアマネジャーの足取りを思うとき、安全対策という言葉の軽さは、ただ虚しく響くばかりである。

じゃあ、あなたがやってみろ

SNSのタイムラインに何気なく書き込んだ言葉が、思いがけない速度で拡散されていく。通知欄の数字が増えていくたび、私はどこか現実感のない気持ちでスマートフォンの画面を見つめていた。


「昨日のカンファレンス。利用者の体重が増えて介護が大変だから食事を半量に減らして欲しいとユニットリーダーが発言。医療的視点でもなくただ介護職側の都合のものは到底受けいれられないと私も栄養課も看護課も伝えたが、じゃああなた方がやってみろと逆ギレ。何から教えればいいのやら……」

140文字ほどの短い文章だった。しかし、その短い言葉の背景には、今の介護現場が抱える深い病理が横たわっている。



それは、「目の前の人を、人として見なくなる」ということだ。

その日のカンファレンスは、本来であれば利用者の生活をより良くするための話し合いだった。だが、あるユニットリーダーの発言で空気が変わった。

「あの人、最近体重が増えて移乗が本当に大変なんです。だから食事を半量に減らしてもらえませんか」

耳を疑った。

医師からの指示でもない。病状管理のためでもない。ただ、「介護する側が大変だから」という理由だけで、利用者の食事を減らそうとしている。

当然、私だけではなく、その場にいた看護課や栄養課も反対した。

食事は単なる栄養補給ではない。生活そのものであり、生きる楽しみであり、人間の尊厳そのものだ。それを「重くて大変だから」という理由で削ろうとすることを、私は到底ケアとは呼べなかった。

しかし、多職種から拒否されると、そのユニットリーダーは苛立ったように言った。

「じゃあ、あなた方が現場に入ってやってみてくださいよ」

その言葉を聞いた瞬間、私は深く疲れた。

あれは悲鳴ではない。対話の拒絶だった。

介護現場が大変なことくらい、誰でも知っている。身体的負担も強い。時間にも追われる。こちらに余裕がなくなり、「早く終わってほしい」と思ってしまう瞬間がまったくないと言えば嘘になる。

だが、その苦しさを理由にして、相手の尊厳を削っていいわけではない。

思い返せば、似たような光景を私は何度も見てきた。

まだ私が現場の介護職で、ユニットリーダーをしていた頃のことだ。ある日の遅番で、私は利用者のナイトケアに入っていた。パジャマに着替え、靴下を脱ぎ、夜を迎える準備をする。それは生活のメリハリを守るための、ごく当たり前のケアだと今でも思っている。

しかし、その様子を見た夜勤職員が激しい口調で言った。

「パジャマなんかに着替えさせたら、朝の起床介助が間に合わないだろ。どうせ認知症なんだから、分からないんだし」

朝の自分が楽をするために、服を着たまま寝かせろという要求だった。

そして何より恐ろしかったのは、「どうせ認知症だから分からない」という言葉だった。

認知症であれば、人としての感覚は失われているのか。羞恥心は消えるのか。生活の感覚はなくなるのか。

そんなはずがない。

あのとき私は、この法人に入って初めて、はっきりと怒りを露わにした。

だが今振り返ると、あの夜勤職員と、今回カンファレンスで「じゃああなたがやってみろ」と言ったユニットリーダーは、ほとんど同じ場所に立っている。

「重くて大変だから」

その言葉を起点にして、相手を一人の人間ではなく、「管理すべき身体」へ変えてしまう。

本来なら、プロとして考えるべきことは別のはずだ。

大変だから、どうやって安全に移乗するか。
大変だから、どうやって福祉用具や環境を整えるか。
大変だから、どうやってケアの動線を見直すか。

そうやって工夫を重ねるのが、本来の専門職の仕事ではないのか。

しかし現実には、そこから一歩ずれてしまう瞬間がある。

大変だから、食事を減らそう。
大変だから、着替えさせるのをやめよう。
大変だから、動けなくしたほうが楽だ。

それは工夫ではない。

支配だ。

施設の虐待防止委員会でも、似た空気を感じることがある。

「日常のケアの中に、不適切な関わりがないか見直そう」

そう提案すると、一部の職員は強く反発する。

「少人数で毎日必死にやっているのに、責められるのは酷だ」

もちろん、現場の苦しさは理解できる。だが、苦しさと不適切ケアは、本来別の問題だ。

人手不足だから虐待が起きるのではない。

むしろ、「大変だから仕方ない」という諦めが積み重なったとき、人は少しずつ他人を人間として見なくなっていく。

それが怖い。

SNSでは、「現場を知らない理想論だ」という反応もあった。

だが私は、理想論を語っているつもりはない。

むしろ逆だ。

現場が壊れていく過程を、私は何度も見てきた。

疲弊し、余裕を失い、相手を“重い身体”として認識し始めた瞬間、ケアは簡単に暴力へ変わる。

だからこそ、そこで踏みとどまらなければならない。

「何から教えればいいのやら……」

あの日、思わずSNSに書き込んだあの言葉は、単なる愚痴ではなかった。

知識や技術なら教えられる。移乗技術も、ポジショニングも、記録の書き方も教えられる。

けれど、「目の前の人を人として見る」という感覚を、私たちは一体どうやって伝えればいいのだろう。

12万回以上表示された数字を見ながら、私は考えていた。

この“まなざしの崩壊”は、決して一つの施設だけの問題ではないのかもしれない。

それでも私は、諦めたくないと思っている。

どれほど「綺麗事だ」と言われても、利用者の尊厳を削ることだけは、現場の都合として受け入れてはいけない。

ケアマネジャーとして。
そして、かつて現場で怒っていた一人の介護職として。

私はこれからも、「それは違う」と言い続けるのだと思う。